top of page

九鬼家の初代・藤原隆信が伊勢佐倉(現在の四日市桜町)から 九鬼に移り住んだのは、正平元年(1346年)前後のこと。九木浦を見下ろす高台に築城し九鬼氏を名乗って、九鬼宗家が誕生した。




ここは九鬼水軍の発祥地となった。今も残る鎧の兜の紋は、「七曜紋」(しちようもん)である。以来、明治に九鬼宗家・盛隆が九鬼を離れるまで代々九鬼に住み続けた。
宮崎の発祥は、九鬼光信(みつのぶ 1441年頃-)が第二分家として宮崎を名乗ったとき。以来、九鬼に住み、九鬼宗家を補佐した。
九鬼宗家が明治期に九鬼を離れてからも昭和に至るまで宮崎の家は九鬼に住み続けたので、水軍の遺物や古文書が家に残される事になった。
生活用具として今も古い提灯が残っていて興味深い。家紋は隅切り木香(すみきりもっこう)。嘉助(かすけ)は江戸時代から昭和にいたり五代にわたって名乗った。
九鬼水軍というと、鳥羽の九鬼嘉隆(よしたか
1542-1600)が著名だ。織田信長に仕え、鉄甲船で数々の戦績を上げた。鳥羽城を築き「海賊大名」とも呼ばれた。秀吉の朝鮮出兵の際には旗艦・日本丸を率いた。関ヶ原の戦いで西軍に加わり、戦後に自刃した。また、嘉隆の孫の世代にお家騒動があり、幕府は、鳥羽から綾部(あやべ・京都)および三田(さんだ・兵庫)に移封した。
その嘉隆は九鬼宗家の系統だが、系図はふたつある。
中和一由遺稿集によると、嘉隆は宗家から見ると第三分家にあたるとしている。一方、参考資料として、丹州綾辺(部)城主九鬼式部小輔隆季が、嘉隆が九鬼家の正統と上申したことも掲載している。
九鬼家については、そもそもの出自についても議論があり、江戸時代に新井白石がまとめた「藩翰譜」でも、ふたつが併記されている。
bottom of page