
伊能忠敬(いのうただたか 1745年-1818年)は、蝦夷地を初め全国を歩いて測量し、精密な日本地図を作り 上げた。大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)だ。現在、大図、中図、小図の3種類が残されている。複製・模写も多い。この地図をめぐりシーボルト事件が起きたことでも知られている。
さて、忠敬は、一連の測量作業のひとつとして文化2年(西暦1805年)60歳の時に、第五次調査を実施し、九鬼を訪れている。
当時は九木浦と言われた。忠敬が測量の旅で毎日記録した日誌「測量日記」の九木浦部分を見ると、尾鷲から船で来たものの荒波のため九木岬付近では上陸が難しく、海上から地形を観測した。その後、九木浦の村に上陸した。
出来上がった伊能図には、港を示す船のマーク や、
天体観測をしたことを示す☆のマークもついている。
測量隊一行は、九木の村で3か所に分宿した。そのひとつが「加助」の家だったと記録されている。
興味深いのは、その当時、宮崎の先祖に初代・嘉助(1754年~1822年)がいることだ。「加助」と「嘉助」は字が違うではないかと言われそうだ。当方に古文書があれば宿泊の有無が確認できるのだが、残念ながら今のところ文書は見つかっていない。測量日記は、人名などは聞き書きをしていたとのことなので、ひょっとしたら、嘉助が宿舎を提供したかもしれないという楽しい想像が膨らむ。
一行は、九木村に上陸し二泊した。その間に二度、山に登り富士山観測にトライしている。なぜか? 忠敬は、測量の起点として富士山をおいており、各地から可能な限り富士山を観測していた。あいにく曇りがちで、九鬼ではうまくいかなかったようだ。
そう言えば何年か前に、三重県から富士山が見えたというテレビ映像があったことを思い出す。
また、調査隊は深夜にも天体観測をしたとのこと。そのエネルギーに感服する。




大図より:アメリカ議会図書館(ワシントンD.C.)所蔵
中図より:伊能忠敬記念館所蔵
測量日記より:伊能忠敬記念館所蔵