■九鬼へのアクセス
九鬼は、名古屋から紀伊半島の東側に沿って約180キロほど南下した所にある。
東京都内から鉄道で移動する場合には、名古屋駅でJR特急の紀勢線・南紀号にのりついで、尾鷲駅まで3時間。さらに各駅停車に乗りついで2駅。約6時間の旅程だ。
自動車で移動する場合には東名高速・伊勢湾岸道路・紀勢自動車道などを利用して9時間前後がかかる。最近は尾鷲までの自動車専用道路が整備されて随分便利になり、自動車利用も多くなった。
また渥美半島の伊良湖岬からのフェリー利用などを組み合わせると多様な旅も楽しめる。
ただ、いずれにしても、東京からほぼ一日がかり。遠い感じは否めない。
■九鬼と私
みちのく津軽・弘前で生まれた私が初めて九鬼を訪れたのは、生後6か月のとき。父母は九鬼の祖父母に私を見せるために蒸気機関車での長い長い旅をした。当時、鉄道は尾鷲までしかなく、そこからは巡航船に乗るか、曲がりくねった急な山道をくねくね行くバスしかなかったそうだ。乗り物酔いに弱かった母は、太平洋熊野灘の荒波に揺れる巡航船だけは願い下げにしたそうだ。自分が思い出せる限りの記憶をさかのぼってゆくと、いつもそこに辿り着くのは、目の前に広がる群青色と大きく揺れる丸くて明るい輝き。いずれも焦点が合わないぼんやりとしたアメーバ状の風景だが、これは九鬼の岸壁から見えた宵闇の海と波にゆれる漁船の電球の光だったのではないかと思っている。以来、これまでに数えきれない回数、訪れた。

昭和25年1月祖母と九鬼にて。

■父のこと
父・宮崎道生は1917年(大正6年)に九鬼に生まれた。小学生なかばで進学のために九鬼を離れ、京都の錦林小学校に転校した。中学は京都一中、そして静岡高校、東大へと進学。同大学の助手になった。
敗戦の年、みちのく津軽弘前の官立弘前高等学校教授に転出、そこで長く暮らすことになった。
そこで私は生まれ育った。だから私にとって九鬼とは、生活上では縁のない遠い遠い父祖の地である。しかし、父は、故郷の小さな漁村から教育・進学のために都会に送り出した祖父とその考えを崇敬し、津軽の家で日々いつもその感謝を話していた。それを聞いて育った私は幼少期から九鬼と祖父の事が頭の中に刷り込まれた。つまり、九鬼とは祖父そのものである。

■祖父の事。
祖父・宮崎嘉助は1878年(明治11年)に九鬼で生まれて、1969年(昭和44年)に九鬼で亡くなった。92歳だった。若い時には日本各地での漁業経営に飛び歩いたほか、三重県に必要な石油販売代理店業務のほか、漁業協同組合の設立、そして、一時期、九鬼村の村長を引き受けた。実業家として幅広く活動したのだが、その後、60代からは実業の世界から少しずつ離れ、九鬼の山でみかん園を経営しながら、その中に小さな別荘を建てて、若い時からの願いだった学究と九鬼家の歴史調査に没頭することになった。今も残るその建物内には、書物や古新聞と雑誌が山積みだ。


みやかの提灯(紋は、隅切もっこう)
■祖先の事
父祖が初めて九鬼に住んだのは、室町時代のこと。今から500年以上も前のことである。
(この項は後述)